「冷静にならなければ」と思っている人は、冷静ではありません。「幸せにならなければ」と思っている人も、幸せではありません。幸せのような感情や感覚は、手に入れるようなものではなく、自分の中にあるものです。
自信のある人が「自分は自信があるのかな」と思ったりしないように、幸せな人も自分が幸せかどうかなどと考えません。ただ幸せなだけです。つまり、幸せというのは獲得するようなものではなく、現在進行中の人生や生活で得た経験の副産物のようなものだということです。
最近は、「これを買えば幸せになれるよ」とか「これを知ればあなたも幸せ」など、幸せが目標であるかのようなマーケティングが多いので、大いに誤解されているようです。幸せは買えるものではありませんし、達成するようなものでもありません。人生のあらゆる部分が整ってはじめて幸せになる、というだけです。
「幸せ」って何なのでしょうか?
幸せは喜びと同じではない
幸せを探していると思っている時、実際は喜びや快楽を求めていることがほとんどです。美味しい食べ物、セックス、テレビ、映画、新しい車、友だちとのパーティー、全身エステ、もっと人に好かれること...など。
もちろんどれも素晴らしいものですが、それは幸せではありません。喜びは幸せと相関性はありますが、幸せの要因ではありません。たとえば、ドラッグ中毒の人は、おそらく快楽(ドラッグ)を求めるでしょうが、最終的には幸せとは程遠くなるでしょう。快楽を求めた一夜だけの火遊びが、本当に愛する人を傷つけることにもなります。すぐに手に入れられる快楽を求めると、長期的な幸せには結びつかないことが多いのです。
物質的で表面的な喜びに執心する人は、最終的に不安や恐れがより強くなり、長期的に見て幸せではなくなると研究によって明らかになっています。快楽のような喜びは、満足の中でも浅く、手軽です。喜びは、売りつけられる物で、こだわってしまうもので、惑わせるものです。快楽では満たされることはありません。もっと求めたくなるものです。
幸せになるのに期待値を下げる必要はない
Facebookでは、常に周りの人がどれほど素晴らしいことをしているかを垣間見ますが、自分の人生はそんなに素晴らしいものではありません。そうすると、自分がゴミみたいに思えて、一体何が悪かったのだろうと考えてしまうことも...。いえ、あなたはもう少し自分を認めた方がいいと思います。
最近、私の友人がリスクの高いベンチャービジネスを始めました。事業を軌道に乗せようとして、貯金もほとんど使い果たしましたが、失敗しました。しかし、彼は今まで経験したことがないくらい幸せです。人生においてやりたいことと、やりたくないことについての教訓を得て、最終的には今の愛する仕事にもつながりました。振り返ってみても、自分のやってきたことを誇りに思っています。もし、ビジネスをやっていなかったら、常に「あの時こうやっていたら...」と考えることになり、それは失敗するよりも不幸だといえます。
期待に応えるための失敗は不幸ではありません。むしろ、失敗できること、経験を受け入れることが、幸せの礎となると思います。
大学を出たらすぐに10万ドル稼いで、ポルシェに乗れると思っているとしたら、あなたの成功の基準は表面的で偏っています。快楽を幸せだと思い込んでいます。この世の現実という冷水を浴びせられ、それが人生で最高の教訓になるかもしれません。
「期待値を下げる」という罠にかかってはいけません。人生の喜びは10万ドルの給料を手にすることではありません。5万ドルならすぐに手が届くかもしれません、そうしたら6万ドルも叶うかもしれませんが、それが続きます。
ですから、期待値は上げましょう。そこに到達する過程を引き伸ばします。1マイルもありそうな長いToDoリストと共に死の床につけば、永遠の笑顔が与えられます。信じられないほど高い期待をして、あり得ないような失敗を味わいましょう。そこから学び、失敗と共に生きましょう。身の回りの地面を叩き割って、その割れ目から、驚きの芽を育てましょう。
幸せとポジティブは違う
どんな状況でも、いつも幸せそうに振舞っている人がたまにいますが、そういう人は無理して取り繕っているはずです。ポジティブなのは良いのですが、常にネガティブな感情を否定していると、ネガティブな気持ちがより深まり、長引き、「感情の機能不全」のような状態に陥ります。
信じられないくらいクソみたいなことが起こっても、それが現実です。おかしなことも起こります。ムカつく人だっています。ミスがあれば、ネガティブな感情は沸き起こります。それでいいのです。ネガティブな感情は、人間の基本的な幸せを安定させる健康的なもので、必要なものです。
ネガティブな感情をうまく吐き出すコツがあります。
1.社会的に受け入れられる形で、健康的なマナーを守って表現すること 2.自分のポリシーに合ったやり方で表現すること。
たとえば、私のポリシーは「非暴力」なので、誰かに頭に来て怒りを表現する時は、指摘はしますが顔を殴るようなことはしません。自分が怒っているというのが伝われば大丈夫です。
「どんな時もポジティブに」というようなイデオロギーを掲げている人がたくさんいますが、私はそういう人たちはできるだけ避けるようにしています。幸せの定義が、どんなことがあっても常に幸せだというのであれば、それはテレビのホームドラマの見過ぎでしょう。現実世界では、人生はそんな平穏なものではありません。
ポジティブ教に魅せられている人は、いつも笑っている人が幸せなのだと、テレビなどで植え付けられたのではないかと思います。もしくは、大変なことをしなくても幸せを手に入れたいというような、怠慢なのかもしれません。一体どちらが本当の幸せを運んできてくれるのでしょうか。
幸せは理想の自分になるまでの道のり
マラソンの完走はチョコレートケーキを食べるよりも幸せです。子育てはテレビゲームで勝つよりも幸せです。小さな会社を友だちと始めて、必死になってお金を稼ぐことは、新しいパソコンを買うよりも幸せです。
面白いことにこの3つはどれも、まったく楽しくないこともあり、期待外れなこともあり、うまくいかないこともあります。しかし、人生において非常に重要な瞬間や活動でもあります。痛みや苦しみ、時には怒りや失望さえもあるというのに、振り返ってみると涙が滲んできます。
一体なぜ?
それは、このような活動が理想の自分に近づけるものだからです。表面的な喜びや痛みも関係なく、ポジティブな感情もネガティブな感情も関係なく、ただ延々と理想の自分に近づこうとすることで、幸せになるのです。戦争中に幸せな人もいれば、結婚式の日でも不幸な人がいるのは、これが理由です。仕事でもワクワク楽しみな人もいれば、パーティーが嫌いな人がいるのも、これが理由です。
「理想の自分」には終わりがありません
マラソンで良いタイムや順位を取ることが幸せではありません。長期的な目標を達成するのは困難なことです。素晴らしい才能を持った子どもが幸せではありません。一人の人間を育てるということが、どんなに特別なことかわかるでしょう。新しいビジネスでお金を儲けて名声を得ることが幸せではありません。一緒に働いてきた人たちと、あらゆることを克服する過程が幸せです。
なぜか。幸せになろうとすると、必然的に不幸になってしまうからです。幸せになろうとするということは、理想の自分が自分の中に存在しないということになるからです。理想の自分を演じているとしたら、幸せになろうとする必要も感じないはずです。
「今あるものの中に幸せを見つける」とか「足るを知る」とかの言葉は、幸せは自分の中にあるという意味ではありません。幸せは自分の中にあるものを追求しようと決めた時に生まれるものです。
これが、幸せが儚いものだと言われている理由です。人生の大きな目標を決め、それを達成した人だけが、幸せも不幸も相対的な量は同じだと気付きます。幸せはいつも、すぐそこの角で姿を見せるのを待っているような感じです。人生のどの段階にいても関係ありません。もっと幸せになるには、常にもう少しやらなければいけないと感じているようなものです。
理想の自分は、常に自分の3歩先を歩いている
理想の自分も、いつもすぐそこの角にいるようなものです。ミュージシャンになりたいと夢見ている人は、ミュージシャンになったら映画音楽をやりたいと夢を見て、映画音楽を作ったら、今度は映画の脚本を書きたいと夢見ます。それぞれの成功で行き詰まっているのではなく、一日一日、一月一月、一年一年、常に前進をしているということです。頭打ちを感じても、それはすぐにどこかへ行きます。理想の自分を追い続けることが、自分の人生の道のりを辿るということです。
幸せになることに関する最高のアドバイスはシンプルでもあります。なりたい自分を想像して、それに向かって進め。大きな夢を描き、何でもいいから行動せよ。このシンプルな行動と前進が、その道のり全体に対する感じ方を変え、さらに飛躍する力をくれます。
想像した理想の自分の姿は手放しましょう。それは必要ではありません。夢や幻想は重い腰を上げるための道具です。その理想の姿を実現できるかどうかは重要ではありません。ただ理想に向かって生きればいいのです。幸せになろうとするのはやめて、ただ幸せになってください。